本書はJohn Crump, Nikkeiren and
Japanese Capitalism, RoutledgeCurzon,
2003の全訳である。
著者であるジョン・クランプはヨーク大学とスターリング大学で政治学の教鞭をとり、The
Origins of Socialist Thought in Japan, Croom Helem,
1983や Hatta Shuzo and Pure Anarchism in Interwar
Japan, Macmillan, 1993
(碧川多衣子訳『八太周三と日本のアナキズム』青木書店、1996年)、Adam
Buickとの共著 State Capitalism : The Wages System
under New Management, Macmillan, 1986、 Maximilien
Rubelとの共編で Non-Market Socialism in The Nineteenth
and Twenties Centuries, Macmillan, 1987
などの著書を残している。本書は、2005年3月に惜しまれながらこの世を去った著者の遺作である。
本書は日経連についての最初の通史的研究である。しかし、本書は、戦後日本資本主義の展開に照らして日経連の活動をたどっていくことで、一使用者団体の通史にとどまらず、財界研究や階級論、現代日本資本主義の性格の解明にかかわる多くの示唆を読者に与えてくれている。ここでは各章についての紹介は省略し、本書の示唆するところを中心にその特徴を述べておきたい。
本書の第一の特徴は、新しい財界研究としての側面である。
これまでの財界研究は、そもそも財界の定義が定まっていないため、研究対象も財閥や大企業の首脳を中心とする経済的なパワーエリートであったり、業種別・地方別経済団体を統合する総合経済団体などであったりと、一様ではなかった。だが、近年の研究には少数の実力者の活動の場というよりは、組織や機構として財界にアプローチする傾向がみられる。研究の焦点もインフォーマルなネットワークを通じた影響力の行使よりは、公式意見書の発表や各審議会・調査会・懇談会への参加など、圧力団体としての活動に移行している。それにともない、研究方法もイッシュー分析が主流をなしており、政策形成や法の制定や改廃における自己利益の実現が、財界の力、つまり影響力を測定する尺度となっている。経団連や日経連、経済同友会の意見対立が浮き彫りにされたり、財界を一枚岩として捉える立場に対する批判が登場したりしているのも、そのためである。
本書は研究対象や焦点において近年の財界研究の特徴を共有しているといえる。著者は、櫻田武や鹿内信隆など日経連を率いた人物に注目しながらも、日経連という組織の活動に焦点を当てつつ、そのなかでもロビー活動を重点的に取り上げている。にもかかわらず、本書の目的は財界あるいは財界団体の影響力の測定ではない。著者がめざしたのは、個々の政策における利益実現の過程の分析ではなく、日本経済の浮き沈みにともない影響力の拡大や縮小を繰り返しながら日経連が果たしてきた役割の解明である。
この点において、本書はこれまでの財界研究とは異なる側面を明らかにする。それが第二の特徴、階級論としての側面である。
本書は、日本における資本家階級の実在とそのイデオロギーに同時に迫っている。まず、著者は、日経連のロビー活動が政府や世論だけではなく、使用者一般に向けられていたことを指摘している。日経連は、個別企業の利害関係を超える使用者としての集団的な利害関係を自覚し力を結集するよう、各企業の使用者に訴えかけていた。その結果、日本の使用者たちは、売上げを伸ばすチャンスを放棄してまで、争議に巻き込まれたライバル会社の操業維持に協力した。このような使用者側の団結により、日産争議や三井・三池争議は「総労働対総資本」の戦場と化したのである。
本書は、日本に階級は存在しないという日経連のイデオロギーに対しても真正面から反論している。「階級なき社会」論を支える論拠として動員されてきた、相対的に少ない所得格差や組合幹部出身役員の比率の高さなどの主張に対して、著者は「重要なのは、誰が会社役員になるかではなく、彼らが何をするかである」と強調する。著者は、日経連が経営者と称した人たちが、彼らの出自にもかかわらず、生産手段をコントロールすることで利潤を創出し資本蓄積を遂行する役割を担ってきたことを指摘している。階級を機能的に捉えることによって、日経連が描く「階級なき社会」の虚像を暴いているのである。
しかし、本書は、日本の資本家階級(日経連自らの歴史がその存在を物語っている)の発見にとどまらず、現代日本資本主義そのものの性格を明らかにすることを目的としている。それが本書の第三の側面、つまり現代日本資本主義論としての側面である。
著者は、日経連のいう日本型資本主義は存在しないと主張し、日本資本主義の特殊性に対しては否定的である。資本主義が労働者から剰余価値を引き出し、資本の蓄積を推し進める過程だけではなく、労働者を社会や国家のシステムに統合する過程をも含むものであるとしたら、各社会の特殊性はその統合の軸になる。つまり資本主義に普遍的に存在するメカニズムを支えるものとして特殊性が動員されるのである。日経連が人間尊重を謳った「第三の道」などを掲げ、日本型資本主義を主張してきたのも、その一環とみることができる。著者は、日経連が日本型資本主義を強調することが、逆説的に、現代日本資本主義の特殊性の否定を意味すると指摘する。いわゆる日本型資本主義とは、日本における資本主義の展開をさすものであり、特殊性を掲げて統合を試みる点で、ほかの社会における資本主義と区別されるどころか、普遍性を帯びているというのが著者の主張である。
本書は、また、現代日本資本主義をめぐるこれまでの解釈に対する反論としての性格ももっている。著者は、これまで海外での日本研究がややもすれば日本資本主義の成功あるいは失敗の原因の解明に走るあまり、労働者の不安や苦痛には目をつぶってきたと批判する。本書は、日経連の活動の分析をとおして、日本の労働者が他の地域の労働者同様、強制や操作、すり替えにさらされていることを明らかにすることで、いわゆる成功と失敗の狭間に埋もれていた生身の人間の苦しみに光をあてている。この点において、本書は、労働組合の役割など議論を呼ぶ内容が含まれているにもかかわらず、海外での日本資本主義論に対する視角の転換を迫る研究としての意義をもっているといえる。
訳者を代表して 洪 哉信