本書は,1999年に上梓した『自由・平等と社会主義──1840年代ヨーロッパ〜1917年ロシア革命』 (青木書店)──以下これを『前書』と略称する──の続編である。当初は,その第2部として構想されたのであるが,執筆に予想以上の年月を要したことなどもあって独立の著作として刊行することとなった。両者の接続関係を考慮して,『前書』の概括ともなる叙述を序章で行った。部分的には記述の重複を余儀なくされたところがある。
本書のライトモティーフは,社会主義(共産主義)──これらの概念の歴史的交錯関係は捨象する──の思想(資本主義批判とその揚棄の結果としての抽象的システム構想を含む)とその実現運動,具体的歴史的諸条件のもとでの思想 = システム構想の社会体制化の試み,いいかえれば,未来社会構想を含む思想とこの思想に領導される運動としての社会主義および具体的歴史的社会システム形成過程(運動の連続)としての社会主義の歴史,この意味での「社会主義史」の世界史的展開における,第2段階(19世紀80〜90年代に始まる)とその新たな第3段階への移行(20世紀60年代末に始まり80年代末〜90年代初めに瞭然となる)の筋道を,自由・平等問題,自由・民主主義問題を通路として解読する点にある(第1段階を含むこの段階規定については序章および第7章第1節で要約)。
『前書』では,社会主義思想・運動の第1段階の中心的論点が「自由・平等・協同社会(association)」という概念で表現されていたこと(例フランス二月革命における自由・平等と労働の権利および協同組織 association 問題,プルードンにおける「権威の原理」と諸個人の「自由意思の原理」の対置,ラサールにおける「自由な人民国家」理念,マルクス = エンゲルス『共産党宣言』における「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会 Assoziation」規定,ロシア・ナロードニキ主義における「土地と自由」理念など)を念頭に置いて標題を『自由・平等と社会主義』とした。むろんその段階でも民主主義は重要な論点であったが(ブルジョアジーとプロレタリアートにとっての民主共和制の階級的意義に関する,自由主義と民主主義との,「民主主義的小ブルジョアジー」と「革命的労働者党」との対抗に関するマルクスの分析など),男子普通選挙制の進展,労働組合組織の伸長,労働者政党の形成により労働者階級のヘゲモニー獲得の政治形態が現実的問題となる社会主義思想・運動の第2段階への移行とともに,すでに『前書』でみたように,「自由主義・民主主義と社会主義」問題が論争の焦点となってくる(例ベルンシュタインの「修正主義」をめぐる論争,ロシア社会民主労働党における民主主義革命と社会主義革命との関連に関する論争,ロシア革命におけるボリシェヴィキとメンシェヴィキの論争等)。とくに本書で考察する1917年ロシア革命以降の局面では,「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」,「議会制民主主義とソビエト民主主義」,「民主主義と独裁(dictatura の汎用訳語)」(例カウツキーらとボリシェヴィキとの論争)といった概念で社会主義と民主主義の関係の問題が論争的に議論されることとなる。その後,反ファシズム統一戦線運動においては民主主義の再把握,「新しい型の民主主義」論が提起され,第二次大戦後は「人民民主主義」や「新民主主義」概念をめぐる議論が展開される。そうして社会主義思想・運動の第2段階から第3段階への移行過程においては「ソビエト型社会 = 政治体制」(この用語については第4章の「はじめに」で説明)における政治的自由・民主主義のあり方の批判,これに対するオールタナティヴとしての「社会主義への民主主義的な道」の探求が中心的論点となってゆく。本書ではこれらの過程を主たる考察対象とするので,区別はあくまで相対的な,あるいは便宜的なものであるが,標題を『自由・民主主義と社会主義』とすることとした。
上記の含意での「社会主義史」の第1段階およびその第2段階への移行局面は『前書』が研究対象としたところであるが(本書序章で要約),自由・平等・民主主義問題からみた「社会主義史」のこうした段階規定の試みはその研究過程で生まれた。
本書では,第2段階の主要軌道たる位置を占めたロシア十月革命とその諸帰結をめぐる諸問題,「ソビエト民主主義」をめぐる論争,「ソビエト型社会 = 政治体制」の造型過程(その原型に即した「型」の性格規定は第4章第3節で試みる)およびその国際的拡延がまず考察されるが,「ソビエト型社会 = 政治体制」の造型の時代──1930年代──にすでに,資本主義諸国における社会主義運動では,民主主義把握を軸として,この型とは異なる,それぞれの国の特殊性を担う社会主義への道の探求が端緒的に始まり,1950年代後半以降の「ソビエト型社会 = 政治体制」の内部での改革諸試行およびその挫折諸経験と並行して,各国独自の「社会主義への民主主義的な道」路線の探求が一層進む。後者の過程には,第2段階において主流となる労働運動,社会主義運動の囲りに,さまざまの「新しい社会運動」が拡がる過程がともなう。第2段階の最終局面では,客観的には資本制生産様式の維持可能性の限界を問い,「もう一つの世界」を探求する「グローバルな社会運動」が拡がる。これらが「社会主義史」の第2段階から第3段階への移行過程を織りなす。「ソビエト型社会 = 政治体制」の崩壊,「体制転換」 (この概念については第7章第3節の1で述べる)によって第3段階への移行過程の終了が劇的に顕現する。これらの考察が主要課題である。
自由・平等・民主主義問題は,理念的には社会主義(共産主義)と本質的な内在的関係をもつ問題である。上記の意味での「社会主義史」を離れてみれば,社会諸理論のなかにこの内在的関係を否定する議論が存在することは無視できない(たとえば J. A. Schumpeter, Capitalism, Socialism and Democracy〔1943〕, London/NY, 1994, pp. 170, 299)。しかし筆者が研究対象とする「社会主義史」においては,これらを不可分の連関関係にあるものと捉えることが前提とされていた。そこで問題となってきたのは,これらの内在的関係を如何に解するかという点にあり──そこには関係の両項の理解の仕方が含まれる──,現実の歴史過程は,この理解における分岐・対立,転換ないし発展の諸様相を示している。
本書の対象とする「社会主義史」の第2段階において思想的に主流の位置を占めるにいたるマルクス主義に即してみれば,一般にこの関係の理解は次の3点にかかわっていた。
(1)「ブルジョア社会の表面」の世界たる「自由,平等および『労働』にもとづく所有の王国」が「工場の門の中」での「資本の専制」,「労働者の絶望的従属」に裏打ちされていることの批判的分析,資本主義社会における民主主義的諸権利の社会的・階級的被規定性およびそのブルジョアジーにとってのパラドクシカルな性格の把握,これを前提とする,労働者階級の階級闘争の発展にとっての民主主義的諸権利獲得の意義の認識。(2)階級社会の揚棄=人間解放のための第一歩として,プロレタリア革命によって「民主主義(democracy)をたたかいとる」こと,いいかえれば人民支配すなわち「プロレタリアートの政治的支配」を確立すること,これによってブルジョアジーの抵抗を排除して物的生産諸条件の資本家的所有を廃棄し,これを「支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中する」──「国家的所有に転化する」──ことの不可欠性の認識。(3)この革命的過渡期をへて,物的生産諸条件が生産者たちの協同的所有(genossenschaftliches Eigentum),あるいは「共同的な領有・制御(gemeinsame Aneignung und Controlle)」 のもとにおかれ,物質的生産過程が,「自由に社会化された人間の所産」として,「人間の意識的・計画的な制御のもとにおかれる」社会,「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会」=共産主義社会が実現されるという展望。
このうち,革命的過渡期における「真の民主制」は,「プロレタリアートの革命的独裁」という性格を担うものとされたが,それは,共産主義社会における政治権力の死滅という展望のなかに位置づけられ,社会がそれ自身の力を自らのなかに「再吸収」する「真の自治」への巨大な前進を意味するとされた。この展望は,政治形態としての「民主主義の克服」の展望でもあった。後者の点について,レーニンが,ロシア十月革命直前の時点で,共産主義社会では民主主義は「完全な民主主義」となることによって,かえって「いかなる民主主義とも等置できない」ものとなる,政治的支配の形態としての民主主義は「慣習」となってゆくことにより「死滅する」,と解説したことはよく知られている。民主主義は,社会の内部に吸収されて自由で平等な社会成員の相互関係の生活規範となることによって,社会関係の特殊政治的形態であることをやめる,という理解である。
民主主義と社会主義との関連に関するマルクス主義の上記のいわば古典的把握のうち,社会主義運動の現実の歴史過程で問題となり続けてきたのは,いうまでもなく第2の点の具体的把握である。このことは,資本主義社会の経済・政治構造の段階的変化──帝国主義段階への移行──と関連し,また当然のことながら,「古典的把握」が,具体的・歴史的諸条件にかかわる「プロレタリアートの革命的独裁」の政治的諸形態について,どこででも適用しうる,あるいは,相異なる読み込みを許容しない「処方箋」を与えるものではなかったこと,と関連している。そうして,第2段階で始まる「修正主義論争」では正統派の立場に立ったカウツキーとレーニンが,ともに「民主主義なくして社会主義なし」といいながら,しかし,それらの内在的関係の捉え方でロシア革命前後の時期から鋭く対立するにいたったのは『前書』でもみたとおりであり,本書で詳しく検討するところである。問題はその後第2段階を通じて問われ続け,第3段階への移行過程で新たな議論の対象となるのである。
本書では,自由・平等,自由・民主主義問題を論じる場合に,主としては政治的自由権,平等権,民主主義制度の側面を対象としている。社会主義思想の具体的歴史的社会体制としての現実化の運動過程としての社会主義(この意味での社会主義の「社会システム」としての側面)に関しては,限られた特殊な歴史的経験のうちの制度論・制度史的側面が主たる対象となっている。対象設定にそうした限定があることが,標題で,内在的関係にある諸概念を「……と(and)……」で連結していることの一因でもある。もっとも,世界史の現段階では,社会主義(共産主義)社会システムが世界史的な成熟を遂げて,所与の歴史的社会システムとしてのそれの社会諸関係の普遍的な,いいかえれば個別的諸形態に貫通する,運動法則が解明され,その観点から,資本の運動法則と自由・平等カテゴリーとの関連,資本主義と自由・民主主義との関連の解明に対応するような異質の内在的関係の分析が可能となっているのではない。そのかぎりでは,上記のような対象限定は,必ずしも筆者の専攻(法学)と関連するだけではない。だが,そこまで言わなくても,本書の考察対象が限定されていることは明らかである。対象が問題の制度的側面に限定されているだけでなく,その範囲内でも選択された特定諸国の歴史的経験に限定されている。
考察対象が限定的であるといっても,本書の扱う主題の範囲が筆者の身の丈にあまる広範なものであるのも確かである。筆者がこの主題にとりつくにいたったのは,研究対象としてきたソ連の崩壊という予測を超えた事態に遭遇したことによる。かの事態に遭遇して,筆者には,「体制転換」にともなう法制度・法理論の変遷を追い続ける課題もあった。だが筆者は,ほぼ1995年時点でソ連の体制転換の軌道が定まるのを見届けて以来,上記の限定された視角からではあれ,「社会主義史」の研究に向かうこととなった。それはそれで,筆者なりの研究史,その系譜と関連していよう。それについて一言しておく。
筆者の研究生活のスタートは,「ポスト市民(ブルジョア)社会」における「市民法(Zivilrecht)」,わかりやすく言えばソ連民法におけるエレメンタールなカテゴリー(所有・契約・権利主体)の研究であった。まもなく「スターリン批判」に当面した。60年代には,筆者は,1920年代に実験的諸試論を論争的に提示していたソ連のマルクス主義法理論「戦線」が「スターリン時代」に方法的衰弱を余儀なくされる,その歴史的転換過程の追究に力を注いだ(『ソビエト法理論史研究:1917?1938』岩波書店,1968年)。70年代には,それを踏まえ,資本主義社会の法についてであるが,その普遍的性格を論じうる段階を想定しつつ,法の「ゲネシス論」・「体系論」を構成する作業に時間を費やすこととなった(『法と経済の一般理論』日本評論社,1974年)。そうしているうちに,「社会主義の危機」認識と関連する社会主義論が多くの論者によって展開されるようになる。そのさい,一方では「現存社会主義」体制における計画経済体制が,他方ではそこでの政治的自由と民主主義のあり方が核心的問題であった。筆者も,80年代には,後者の問題領域を中心として社会主義論にかかわるようになり,1986年には,「後進国・先発・局地革命」の所産としての「ソビエト型社会 = 政治体制」の成立を論じ,この型の社会体制からの質的転換のためには,「資本主義諸国における『民主主義的変革』(社会主義への道をひらくそれ)の進展」を最重要の環とする「社会主義の世界史的水準での段階的発展」によって「初期社会主義段階の一般的条件」が解消することが前提となるであろう,との推測を述べた。この間,視点を漸次シフトさせてきたのであるが,86年の時点でなおソ連崩壊という事態はまったく予測されていなかった。したがって,研究課題を,法の「歴史論」の前提,「所有・家族・国家の歴史的諸形態」に転換させる予定であった。
だが,予測を超える事態に直面して,まずはソビエト法・法理論史研究をはじめとするそれまでの研究で前提としていた「社会主義史」理解の再検討を余儀なくされたわけである。
再検討といっても,「ソビエト型社会 = 政治体制」の崩壊は社会主義の終焉を,「ポスト社会主義」時代の到来を意味するものでは決してなく,「社会主義史」の世界史的展開の第3段階への移行を意味する,という主張が本書の基調であって,その点では筆者の研究史の始点から続いている「経済的社会構成体の段階進行的(progressiv)諸時代」に関する史観に変わりはない。自己了解のかぎりでは,である。そのさい,「社会主義史」を客観的な歴史過程として観る視点と社会主義への道を現代世界の支配的社会システムのオールタナティヴとして構想する観点との結合が意識されているのは当然であるが,後者の立論のためには独立の一書を必要とするのであって,本書ではそれは観点として前提されているにとどまる。本書の射程は「社会主義史」の第3段階への移行過程の終了を見届けるまでである。この移行過程の背景をなし,1990年代以降の第3段階の第1局面で議論が一層進展してゆく資本主義のグローバリゼーションと新自由主義政策,現代帝国主義の新展開,この局面での社会主義運動およびそれにつながる反グローバリズムの社会運動を含む「新しい社会運動」の新たなプログラム編成,それらの連携構造については,多少の付論的記述を試みるにとどまっている(第7章第4節)。それこそが主題であるべきではないかとの批判が本書の読者から発せられるとすれば,むしろ筆者としては本懐としなければならない。
『前書』では,筆者が研究経験をもたない思想・運動としての「社会主義史」を扱うという意味で大きな困難があった。本書では,これに加えて,長期にわたり筆者の研究が直接・間接にかかわってきて,一定の見解をもってきた領域を含むことと関連する別個の困難があった。本書で最も大きな位置を占める「ソビエト型社会 = 政治体制」の成立の前史およびその成立過程とこの体制の「型」の規定およびその歴史的性格の考察では,当然のことながら,政策決定過程を規定する客観的社会構造(政策決定主体の社会的性格を含む)と政策決定によって規定される社会構造(政策決定主体の構成の変化を含む)との反復的相互連関を解き明かすのは容易ではなく,単純な図式化を避けるように努めたが,記述素材の選択におのずから入り込む筆者の観点を含め,『前書』までの見解を抜本的に組み立て直すにはいたらなかった。この「型」を受容した中東欧諸国における社会 = 政治システム変革の現実の歴史過程については,特定の国の特定の時期に限られ,既存の研究に依拠した一般的理解の枠内にとどまっている。第3段階への移行過程における各国の社会主義運動における「社会主義への民主主義的な道」の探求の記述は至極一般的なものである。旧ソ連についても体制崩壊後に多くの史料が開示・解読されつつあり,ほぼ2006年初頭に擱筆している本書では検討できていない史料,参照できていない新しい研究も少なくない。
本書の限界についてのこれ以上の説明は避けたいが,本書が世界史的視野を重視しながら,ラテン・アメリカ諸国等はさておき,ほかならぬ日本およびアジアにおける社会主義思想・運動の歴史を主たる考察対象に含めえていないという点に筆者が無意識であるわけではないことは書きとどめておきたい。
(文献に関する注記はここでは省略している。)