いま福島で考える:震災・原発問題と社会科学の責任 後藤康夫・森岡孝二・八木紀一郎編

大震災・原発事故の1周年に、経済系4学会が福島に集い、地元自治体、福島大学、日本学術会議、ドイツ・エネルギー問題倫理委員会の各関係者などを招き、市民の参加も得て、これからの福島、これからの日本、これからの社会科学=経済学を考え、話し合ったシンポジウムの全記録。
- 四六判/上製/288頁(写真カラー刷り)
- ISBN978-4-905261-10-0
- 本体2400円+税
- 初刷:2012年10月15日
編者の言葉
目次
- はしがき 八木紀一郎(経済理論学会代表幹事)
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第1部 原発災害の現地から
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周辺自治体における避難と放射能との闘い
三つに線引き・分断された街
南相馬市長 桜井勝延 -
命を脅かす原発とわれわれは共存できない
被曝した大地と農産物:全面賠償と除染を求め直接行動
福島県農民運動連合会事務局長 根本 敬 -
立ち上がった新しい市民運動
8・15世界同時フェスティバルFUKUSHIMAに全国から1万3千人
ネット同時配信に全世界から25万人参加
プロジェクトFUKUSHIMA実行委員会代表・ミュージシャン 大友良英
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周辺自治体における避難と放射能との闘い
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第2部 震災・原発事故が政治経済学に問うもの
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震災・原発問題と日本の社会科学
政治経済学の視点から
八木紀一郎(経済理論学会代表幹事・摂南大学教授) -
東日本大震災・原発事故と社会のための学術(付:資料)
広渡清吾(日本学術会議前会長・専修大学教授) -
原災地域復興グランドデザイン考
山川充夫(経済地理学会前会長・福島大学学長特別補佐) -
東日本大震災と漁業:震災後の「減災」に向けた社会科学の役割
濱田武士(日本地域経済学会会員・東京海洋大学准教授) -
「資本から独立した政治経済学」が今こそ必要
大西 広(基礎経済科学研究所前理事長・慶應大学教授)
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震災・原発問題と日本の社会科学
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第3部 フクシマ、チェルノブイリ、ドイツ
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福島第1原発事故と福島における復興の道
鈴木 浩(元福島県復興ビジョン検討委員会座長・福島大学名誉教授) -
福島とチェルノブイリ:差異と教訓
清水修二(福島県チェルノブイリ調査団団長・福島大学前副学長) -
ドイツの脱原発への道
ミランダ・シュラーズ(ドイツ政府エネルギー問題倫理委員会委員・ベルリン自由大学環境政策研究センター長)
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福島第1原発事故と福島における復興の道
- 第4部 市民参加の討論と集会宣言
- あとがき 森岡孝二(福島シンポジウム実行委員・関西大学教授)
編者紹介
- 後藤康夫(ごとう・やすお) 福島シンポジウム実行委員・福島大学教授
- 森岡孝二(もりおか・こうじ) 福島シンポジウム実行委員・関西大学教授
- 八木紀一郎(やぎ・きいちろう) 福島シンポジウム実行委員長・経済理論学会代表幹事・摂南大学教授
本書は、東日本大震災と東電福島第1の原発事故が起きて1年後の2012年3月24〜25日に、福島市で複数の経済学系学会の共催でおこなわれた市民参加型のシンポジウムの記録である。その内容は企画者の予想以上に豊かであり、また日本の社会科学と市民社会との関係の回復のためにも有益な催しとなった。それが、本書を公刊する理由である。
(中略)
わたしたちが福島で集会を開催したいと考えたのは、大震災・原発事故による地域社会・地域経済の破壊を総体的に解明し、それからの復興を構想しうるように経済学を再生させるためには、災害を直接受けた人たち、間接的被害を受けた人たち、潜在的リスクにさらされている人たちの視点をとりいれ、市民の前で討議しうるスタイルを生みだすことが不可欠だと考えたからである。
今回の震災問題・原発事故では、従来の防災対策と地域政策、原子力に依存した電力供給体制を支えていた政治構造、産業体制、そして科学技術のありようが鋭く問われた。はじめは「想定外」ということばが弁解の枕詞のように用いられたが、それは費用等との関係で便宜的に考慮の範囲外に置くことに過ぎなかったことがすぐに明らかになった。「予測不可能な事態」ともよくいわれたが、これは単純に嘘であった。多くの虚偽説明と混乱、さらにつもりつもった不作為が暴露されて、第2次大戦後の日本社会を支配していたナイーブな科学技術信仰がものの見事に崩れ去った。これは日本の精神史における大きな断絶点となるであろう。それを集会に参加した一市民は「科学に対する信頼が地に墜ちている」と表現した。
現在の日本社会では、経済学を含む社会科学に対する信頼は自然科学や先端技術へのそれよりも格段に低い。その意味では、社会科学者には失うべき信頼などはそもそも無いというべきかもしれない。しかし、「信頼」が一般にあろうとなかろうと、社会科学は、政策や現状評価に対して、肯定的(支持)であれ、否定的(批判)であれ、自然科学以上の影響力をもっている。社会科学は、まさに社会認識と政策形成のツールであるからである。
震災と原発事故に直面した市民は、なぜこのような惨事がこのような場所でこのような規模で起きたのか、なぜそれへの対応がこれほど遅延と混乱を繰り返しているのか、復興と再生の方針はどうあるべきかと問いかける。それに対して、社会科学者は、その問いを共にすると同時に、それが自らの責任を問うていることを自覚しなければならないのではないかと思う。
福島の集会には会場の定員をこえる参加者があり、共催・協賛学会に所属しない研究者や地元市民も積極的に討論に加わった。私の脳裏に焼き付いているのは、「集会宣言案」をめぐる討議において、市民の側から、市民が加わらなければ科学者の議論も公正なものにならないのではないかという発言、自分は非条理な状況に自分たちを置いた東電などと闘う武器になる理論を求めてこの集会に来たという発言、被災地・被災者の立場からすればより強い態度表明が必要だという発言が相次いだことである。それらすべては、社会科学研究者に対して、その責務を問う声であったと私は思う。
低線量被曝にさらされている福島に行き、現地の声を聴き、現地の市民の前で、市民を交えて討論することで、日本の社会科学の再生の途をつかむ。この集会では、少なくともその手掛かりが得られたように思う。
福島シンポジウム実行委員長(経済理論学会代表幹事) 八木紀一郎